笑う門には福来る

坊様三味線 仁太坊とは?

神原の仁太坊

こんにちは、かんちゃんです。

今回は前回に引き続き津軽三味線の歴史のお話をしてきたいと思います。

その中でも重要人物の「仁太坊」についてお話ししてきたいと思います。

 

本名は秋元仁太郎

津軽金木神原村に安政4年に生まれました。

父親は岩木川「渡し守」をしてて、母は仁太郎を生んで間もなく亡くなりました。

亡くなった母はどおやら瞽女(ごぜ)だったという説もあります。

 

 

瞽女(ごぜ)

 

瞽女とは盲目の女性が何人か一組になり、村から村へ三味線と唄を聞かせながら旅をする吟遊芸人と呼ばれた方々です。

瞽女の中にも今で言う組合みたいな組織があったらしく、とても規則が厳しかったようです。

瞽女は結婚してはならないとか男性とお付き合いしてもダメというようなとても厳しい規則もあったみたいです。

そんな中、規則を破ると一緒に回ってる一組の座長から破門にされるみたいです。

破門された瞽女「はぐれ瞽女と言われ単独で旅をしていたそうです。

もしかしたら仁太坊の母も「はぐれ瞽女だったのかもしれませんね。

 

そしてこの瞽女津軽三味線の発展に大いに関係してくるのである!!

 

 

話しは仁太坊に戻りますが、仁太坊は8歳の時に天然痘という高熱の出る病気にかかり高熱が原因で視力を失います。

仁太坊の家庭は裕福な方ではなく当時の階級は下層階級でしたので薬も買うこともできず、ただただ命が助かっただけでも幸運だったらしいですね。

 

元々、仁太坊は音楽が大好きで視力を失っても持ち前の明るさと「ジョッパリ」「エフリコキ」の精神で横笛を勉強して門付けして歩くようになります。

 

そして仁太坊の父、秋元三太郎が働いてた岩木川の渡船乗り場や神原村には良く「はぐれ瞽女が居て三味線を弾き語りして生活していたみたいです。

 

仁太坊は横笛から尺八も演奏できるようになるのですが、ある時、瞽女の演奏する三味線を聞いてしまい仁太坊本人が衝撃を受けたそうです。

瞽女の後をついて回り三味線の音色を楽しんだり記憶したりしてたのですが、瞽女も変わった子供だなと思ってたのでしょう。

瞽女の方から「お前、三味線弾いてみたいのか?」の様な事を言われたのか・・・・・とうとう瞽女から三味線と唄を習うことになり仁太坊瞽女から三味線の基礎を習いました。

 

そののち、マンという弱視の女性と結婚します。

この妻マンは若い頃イタコの修業をつみイタコになってるのですが、人気が無くイタコは廃業していました。

仁太坊は妻マンの影響でイタコの修業を受けることになり男なのですが特別に修業をし、苦行を乗り越えてイタコになれたそうです!!

 

このイタコ修業の経験が仁太坊の三味線に大きな影響を与えました。

 

当時は元当道組織の坊様が多数おり、仁太坊はかなりの年少者だったみたいです。

 

しかし仁太坊にとってはそんなことは関係なく多数の坊様の中からメキメキと頭角を現し「神原の仁太坊」という風に有名になっていくわけなんです。

とにかく仁太坊は新し物好きで負けず嫌い!

まさに「ジョッパリ」と「エフリコキ」ですよね。

瞽女から教わった三味線とイタコ修業の経験で他の坊様とは一味も二味も違う三味線を演奏していたらしいです。

 

そして仁太坊義太夫節弘前の茂森座で聞いた時に衝撃が走ったそうです。

義太夫節の効果音に使っていた楽器が義太夫三味線という太棹三味線だったのですが仁太坊が普段演奏してる三味線とは格別に違う音色と音圧だったようです。

 

当時、坊様が使っていた三味線は全て細棹三味線でした。

 

仁太坊義太夫三味線こそ自分に一番合う三味線なのではと思い始めました。

義太夫三味線こそが自分の求めてる音や音澄みが出させる唯一の三味線だという事で、義太夫三味線を買うことにしたのですが。

 

この義太夫三味線が当時物凄く高価だったらしく仁太坊には到底買える値段ではなかったようです。

なのですが仁太坊の周りの知人や友人から寄付を受けて、自分でも寝る間を惜しんで三味線の技術を高め一生懸命、門付けしてようやく義太夫三味線を購入することができ。

 

水を得た魚のように、だれも仁太坊には追い付けず津軽の門付け坊様の頂点に上り詰めました。

 

そして仁太坊の晩年は門付けはやめて、弟子に三味線の技術を教えて生活していたと聞いてます。

 

仁太坊はまず最初に三味線は持たせず、口三味線を教えたそうです。

声で三味線のフレーズやグルーブを覚えさせてから、実際に三味線を持たせて教えていたようです。

そして教える時も仁太坊が自分の膝元に弟子を座らせ弟子の後ろから弟子を操り人形の様な形で教えていたそうですね。

 

そして仁太坊は全てのお弟子さんに必ず伝える言葉があったそうです。

 

それは。

 

「人真似だばサルでもできる、なの三味線ふげ」

 

「人真似ならサルでもできる、お前の三味線を弾け」という意味ですね。

要するに一人一人がオリジナリティーをもって自分のカラーで演奏しなさいと言ってるんですね。

 

ここが他の伝統楽器とは発展の仕方が少し違うところですね。

 

雅楽長唄といった伝統楽器は昔から伝わる古典的な楽曲を忠実に再現することが評価されるのですが、津軽三味線の場合は逆で批判されてしまいます。

 

津軽三味線とは、太棹で即興演奏を奏でることだと私は思ってます。

実際に津軽三味線のジョンガラ節独奏などは、ほとんどが即興演奏です。

 

なので津軽三味線は今現在も進化し続けてるんですよ。

 

仁太坊の時代から受け継がれてるこの言葉が今でも大切に守られ、自由に発展し続ける津軽三味線が私は大好きです!

 

後記

 

次回は津軽三味線の神様白川軍八郎とその他の名手のお話をしたいと思っています。

白川軍八郎仁太坊の最後のお弟子さんになります。

軍八郎仁太坊に弟子入りしたのは9歳、仁太坊が60歳だったらしいです。

軍八郎は、わずかの期間で師匠の仁太坊を技術で追い越してしまう天才だったみたいです。

 

 

拝読していただきまして、ありがとうございます。

次回もどうぞ宜しくお願いいたします。