津軽三味線の神様!!!
こんにちは、かんちゃんです。
今回はいよいよ、津軽三味線の神様といわれた白川軍八郎です。
白川軍八郎 本名 明治4年に北津軽金木不動林に生を受ける。
4歳の時に麻疹により視力を失う。
軍八郎の生まれた不動林は仁太坊の住む神原とは隣町、軍八郎は仁太坊へ弟子入りするのは運命だったのではないでしょうか。
軍八郎が9歳の時に隣町の仁太坊へ弟子入り、仁太坊は60歳だったそうです。
周りの坊様達はほとんど「唄会」に演奏の場を移していく中、仁太坊は頑なに「唄会」には参加せず、神社仏閣の例祭や川倉地蔵尊祭で演奏していて軍八郎は仁太坊のお付きで約3年ほどジックリと修業したそうです。
軍八郎は全くの盲目ではなく白黒の区別がつくくらいでうっすらと光がさしていたそうです。
仁太坊は「唄会」には目もくれず、ひたすら己れが芸を磨き、己れの命を燃え尽くすように激演していたそうです。
その生きざまをそばで見ながら聞きながら軍八郎は仁太坊からその全てを学んでいきました。
そして軍八郎はこの修業時代に芸人の芸魂の何たるかを骨の髄まで叩き込まれました!
軍八郎は人一倍、師匠思いでしたので仁太坊の生き様は本当に勉強になっただろうし。
強く共感する部分もあったに違いありません。
しかし軍八郎はこの修業時代、何か胸につかえるモヤモヤ感が残っていたそうです。
そうです!軍八郎は華やかな「唄会」で演奏したかったのです!!!
軍八郎は「坊様で一生を送りたくない、送ってたまるものか!」と強く思うのであった。
その思いが修業時代にためにため込んで、3年の修業を終えて仁太坊から独立。
ためにため込んだその思いが「唄会」で爆発・・・・・と言いたいところなのですが。
無名の坊様を迎え入れる一座はなかったそうで軍八郎はとにかく三味線の芸を磨きに磨いたそうです。
当時、大流行していた「長泥手」や「梅田手」なども独学で全てマスターしました。
ちなみに軍八郎は仁太坊の最後の愛弟子だそうです。
そして大正13年に待望の「唄会」の一座に入ります。
尾原家万次郎一座に三味線奏者として入る。
尾原家万次郎一座は津軽手踊りの名門で、ここでは軍八郎は目立った活躍はなかったらしいですが、座長の十八番の「安木節」や手踊りの地方三味線(手踊りの伴奏)をマスターしていきます。
この「安木節」は今現在の「津軽小原節」のリズムの元になったと言われてます。
2年後に万次郎は一座を妹の三上鶴子に委ねましたが、軍八郎は一座に世話になっているということから座長が変わっても一座を去らなかった。
そして昭和3年には「唄会」の興行が本格的になってきて沢山の一座が相次いで旗揚げしました。
工藤美英率いる「陸奥家演芸団」
青函くに子一座
工藤玉枝一座
などなど今でも語り継がれる一座がこの時期に旗揚げされていたんですよね。
このほかにも沢山の一座が旗揚げされ東北や北海道で切磋琢磨しながら発展していくわけです。
そして一座の急増は唄い手や三味線奏者のスカウト合戦が始まりました!
このころ三上鶴子一座の軍八郎は今まさに三味線奏者のスパースターになりつつありました。
卓越した撥さばきが評判をよび、盲目特有の音感の良さもあり。
人一倍の稽古が才能を開花させつつあったのです。
そんな軍八郎を他の一座が、ほおっておくわけがないのですが。
金銭に欲のない軍八郎はどんなに契約金が高かろうと断り続けました。
軍八郎はこの一座で長年、三味線奏者として大活躍していき、更なる高みを目指して修業していきます。
それまで三味線の糸巻きには一番下に三の糸を巻いていました、誰もが戸惑いも無く当たり前のように一番手前の糸巻きに三の糸を巻いていましたが。
軍八郎は切れやすい三の糸(当時は絹糸)を二の糸の糸巻きとチェンジ!!
何故かというと一番手前の糸巻きはカミゴマとの角度が付きすぎて三の糸に負担がかかるので二の糸の糸巻きに巻き替えてたそうです。
二の糸は太いのでカミゴマとの角度が付きすぎても切れることはない。
とにかく研究熱心な軍八郎だったらしいです!!
現在この巻き方はどのくらいの割合なのかわかりませんが、私も同じです。
そして昭和10年、軍八郎は三上鶴子一座で三味線奏者として自信をつけていよいよ大きな超有名一座「陸奥家演芸団」に看板三味線奏者として更なる高みを目指し入ります、そしてここで三味線の即興演奏「曲弾き」をあみだしました!!
津軽民謡や津軽三味線の豪快な歌声や演奏は沢山の一座の巡業から生れた賜物なのです。
当時はニシン漁や十勝の豆相場そして各地の炭鉱で北海道が物凄く景気が良く数ある一座もそれに乗っかり北海道巡業が大流行りでした。
しかし景気は良いが田舎は田舎!
当時マイクや照明があるのは大都会の大きなホール会館しかなかったそうです。
ほとんどは生唄や生演奏、照明もランプだったら良い方でロウソクの明かりって会場も少なくなかったそうです。
そんな中、声が聞こえなかったり三味線が聞こえないと容赦なく罵声が飛んできたそうです。
その様な状況ですので唄い手さん達は張り裂けんばかりのありったけの声量で唄い、三味線奏者は一の糸をこれでもかってくらい叩き続けてお客さんを沸かせていたそうです。
なので津軽民謡独特の声が裏返るか裏返らないかのギリギリの切ない節まわしなどが生まれたのではないでしょうか。
三味線もしかり、それまでは前弾きとか曲弾きは無かったので伴奏楽器として演奏でした。
前奏は10秒程度しかなかったようで、それも簡単なフレーズだったようです。
それがお客様に聞こえない!!!
軍八郎はどんな気持ちだったのかわからないですが突然、一の糸を連続で叩きだしたそうです。
今現在、一の糸は0から19のツボまで連続で叩きながら上下しますが、当時は考えられなかった奏法です。
その時軍八郎は「こん畜生~~~聞きやがれ~~~っこれでも聞こえんか~~~っ!」とでも思って演奏したのでしょうか?
これが軍八郎の生き様、仁太坊の生き様、がグルーブに乗っかってお客さんが沸きに沸き20秒に伸ばした前奏が30秒になり、挙句のしまいにはお客様から「もっとやれ~~~っ」と声援が飛ぶようになりました。
そしてついに軍八郎は津軽よされ節の伴奏の前奏に「よされ前囃子」と名付けた三味線の即興演奏を確立させたのである!!
勿論、一の糸を連続で叩く奏法(一本撥奏法)と共に軽快なグルーブを刻みながら繊細な音澄みも唄声の様に響かせながら更に更に高みを目指していきます。
この頃、津軽民謡にも時代の変化があらわれます。
津軽民謡の大会が盛んに行われるようになり、唄い手さん達がこぞって唄の技術を磨きました。
多くの唄い手さんは唄を長く聞かせるために節まわしを長めにころがすようになり「長節」が流行り出します。
だんだん現在の津軽民謡に近くなってきます。
その頃、軍八郎は樺太(ユジノサハリンスク)で巡業していたのですが、巡業から津軽へ戻り、あまりの津軽民謡の変わりように驚いたようですね!
当時、唄付けの名人とされていた福士正勝を訪ねて唄付けの手ほどきを受けたといいます。
軍八郎は唄付けも見事に習得し、更に巡業に明け暮れる毎日だったと言います。
ですが一座の唄い手さん達は軍八郎に伴奏してもらうのを嫌がりました!
何故かというと軍八郎の三味線に唄が喰われるかららしいです。
軍八郎の三味線がそれほど凄かったという事なんでしょうね!!
楽屋での様子
ここで軍八郎と他の三味線奏者の裏話し。
ほとんどの芸人は自分の出番が無い時は楽屋で花札博打をしていたそうですが、軍八郎は博打は打ちませんので大体は三味線の手入れか練習をしていたといいます。
そんな中、軍八郎が練習を始める時には必ず周りの人に「おいっ〇〇さんは居るか?」と他の三味線奏者が居るか居ないか確認したそうです。
そこで当時一緒に巡業を回ってた木田林松栄が静かに「居ないって言ってくれ」と身振り手振りで周りの人伝えます。
そしたらおもむろに三味線の練習を始めます、そうです他の三味線奏者にフレーズを盗まれるのわかってるので居たら新技は練習しないようにしてたようなんですよ。
それでも木田林松栄は新技を盗みますが、軍八郎の新技はあまりにも巧妙で難しかったらしくほとんど真似されなかったみたいです。
この時点ですでに白川軍八郎は「津軽三味線の神様」といわれるようになってます。
そして軍八郎の演奏を生で聞いたことが有る方から直接私が聞いた話なのですが。
その方は軍八郎の演奏を聞いた時、体が震えたと言ってます。
その他
「軍八郎の古調津軽あいや節を舞台袖で聞いてたら、知らぬ間に・・・本当に知らぬ間に涙がホホを伝ってた!」
「軍八郎の三味線は唄ってる!」
「軍八郎は曲に入る前の調弦時に張り裂けんばかりの拍手が来る!」
「軍八郎の三味線は綱渡りだっ!綱渡りの様にフラフラしながらも絶対的なグルーブは外さないで切ないほどのグルーブ感を醸し出す」
などなどと本当に当時を振り返りながら語っていただいたことが有ります。
軍八郎の三味線は見ての通り中竿と太棹の中間くらいの三味線で、しかもガタガタだったらしいです!
撥も軍八郎は鼈甲の高価な撥を使わず、自分で固い木から削って自作してたそうです。
そして絃が切れるのがもったいなくて撥の角はご飯のシャモジの様に丸かったそうです。
生涯、お金に欲を出さずに三味線に人生を全てかけた津軽三味線の神様
昭和37年、札幌の巡業先で結核を患い5月18日に札幌の病院で誰にも看取られずに静かにこの世を去ったそうです。
後記
白川軍八郎の音源は今でも数曲は聞けます。
今聞いても鳥肌物の曲もあります。
YouTubeにも数曲アップされてますので是非聞いてみてください。
次回は津軽三味線の意外な歴史についてのまとめに入りたいと思います。
拝読していただきまして、ありがとうございます。
次回もどうぞ宜しくお願いいたします。