少しだけ前回の続き!
こんにちは、かんちゃんです。
前回「神原の仁太坊」のお話をいたしましたが、まだ少しだけこの時代のお話をさせていただきます。
これから次の時代の津軽三味線の名手の話をする上で重要なお話なので宜しくお願いいたします。
仁太坊がいつから門付けをやめて弟子の指導に専念していったのかは定かではないのですが、間違いなく門付けをやめて指導に専念してます。
仁太坊の後の時代の奏者は全て仁太坊に繋がっていくので間違いないでしょう。
そこで肝心なのが前回のブログでお話しした仁太坊の言葉です!!
「人真似だばサルでもできる、なの三味線ふげ!」
「人の真似はサルでもできる、お前の三味線を弾け」
という風に自分のオリジナリティーをもち、自分のカラーを出して三味線を弾きなさい。
この言葉を何百人という仁太坊の弟子が習ったわけなんですよね。
津軽三味線が産声を上げたばかりの時代です、今みたいにテクニックが確立されてるわけではございません。
弟子たちはそれぞれに物凄い苦労をしてオリジナリティーを出していったことでしょう!!!
今回はその変わったオリジナリティーが紹介できればと思っています。
そして話は少しそれますが、仁太坊は弟子が沢山いたので門付け芸人達よりは稼ぎは良かったようなのですが。
親からいただいた物置の様な掘っ立て小屋に生涯暮らしていたそうです。
吹雪の時などは壁から雪が吹き込んでくるような建物だったらしいですね!
そして生涯「ジョッパリ」「エフリコキ」の精神で妻のマンと暮らしてたそうです。
口癖が「なんだば、なんだもんだば!」と目の見えない障害に悩まされてたのか常に言っていたそうですね。
そして、昭和3年の秋に自宅の藁布団の上で妻のマンに看取られながら一人の坊様が逝った!
津軽三味線の始祖 仁太坊 71歳
私は今年の9月に青森県の金木町に演奏でいかせていただきました。
演奏する現場のすぐ近くに仁太坊の実家のお墓がありまして、手を合わせてきました。
昭和3年没なので本当に仁太坊が実家のお墓に入ってるかは定かではないそうですが、お墓の前に立つと何だか身震いというかザワザワっとした感じがしまして!!
本当に感慨深いお墓参りをさせていただきましたね。
坊様三味線
それではここからは、仁太坊から三味線を直接習った方々のお話をいたします。
仁太坊はまず口三味線という三味線の音を声に出して奏でる方法で弟子に教えます。
例えば「チリテレ チリテレ タンタンタン ジャジャジャン」というようにこの言葉に音階を乗せて弟子に教えます。
実際に三味線を弾く前に「耳コピ」させちゃうんですね。
そうすることによって実際に三味線を持った時にスンナリ演奏できるのです。
そして実際の指導は仁太坊の膝元に座り、後ろから弟子を操り人形のように指導してたと伝わってます。
お互い盲目なためこの様な指導になったのでしょうね。
太田長作
長作坊は仁太坊の割と早い時期の弟子ですね。
明治8年に北津軽長泥に生を受け、幼少のころに視力を失っています。
長作坊は6ヶ月で仁太坊の教えを全て習得してしまった天才だそうです。
普通の弟子は10個、教えると4~5個覚えれば良い方なのに長作坊は2~3個教えると4~6個は覚えたそうです!!
そして直ぐに坊様として独立して、なんと18歳という若さで弟子持つようになります。
長作坊は、ジョッパリの仁太坊と正反対の性格で温厚で争い事はまったくしない性格だったようです。
なので三味線も仁太坊の叩き三味線と弾き三味線の合作ではなく、弾き三味線のみにこだわって演奏していたらしいです。
弾き三味線とは撥を激しく皮に叩きつけないで、絃を撫でるようにやさしく弾く奏法。
性格が出てきますよね。
とにかく激しさよりも、音の音澄みを良くしたかったらしく。
弾き三味線にこだわり生涯、弾き三味線を演奏し、弟子にも弾き三味線を伝えていったそうです。
この長作坊の弾き三味線の事は「長泥手」と言われていたそうです。
そして「長泥手」は明治末期まで津軽一円に広まり大流行していたらしいです。
後にこの「長泥手」は、あのとても有名な「高橋竹山」に伝わっていくのでした!!
梅田豊月
梅田豊月 明治18年 北津軽梅田に生を受け 本名は 鈴木豊五郎といいます。
長作坊の弟子は三百人はいたのですが、その中でも一番筆頭なのが梅田豊月だったらしいです。
そして梅田豊月を話す上で欠かせないのが「唄会」です。
当時、津軽では坊様達の芸は三味線のみじゃなく笛・太鼓・唄・八人芸などなど多種多様に及んでいたそうです!!
その中で人気があったのは唄と共に三味線を聞かせる芸でした。
当時はテレビもラジオも無く勿論音楽的なコンサートも皆無な時代です。
そしてもちろん唄の世界にも仁太坊の教えが行き届いており、とても上手な唄い手さんがいたそうです。
松節の松五郎
出崎節の出崎の坊
桃節の嘉瀬の桃
そして唄・太鼓・笛・三味線とセットで興行を行う者達が現れ、坊様達には目の上のタンコブだったらしいですね。
そして時代の流れなのでしょう、坊様達も「唄会」という興行に参加する形で「唄会」に飲み込まれていきます。
まさにその時代の真っ盛りに梅田豊月はいたのです。
そして先ほどの三羽烏の一人、嘉瀬の桃とコンビを組んで「唄会」で活躍していきます。
梅田豊月は目は見えていたのですが、両手の指が全て短くて内側に曲がっている状態だったそうです。
ですがそこはジョッパリの精神で手首を深く曲げたり、届かない指は手自体を動かしたりして工夫しながら太棹の津軽三味線を弾きこなしていたそうです!!
梅田豊月は長作坊に習っているので、もちろん「長泥手」なのですが、ここでも仁太坊の影響が!!
「長泥手」というのは前バチ(弱バチ)のみの奏法ですが梅田豊月は後ろバチ(強バチ)も弾いていたそうです。
そうです正にこの瞬間、今の津軽三味線の強弱バチの移動が生まれていたわけなんです!
そしてもう一つ、梅田豊月はバチを持つ手の小指をコマに掛けて音を静める奏法を使っていたそうです。
このテクニックも今現在、多くの演奏者が使うテクニックです。
なんと明治時代の中頃には今でも使うテクニックが生まれてたんですね!!!
次は津軽三味線の神様と言われた白川軍八郎についてお話ししたいのですが長くなってしまったので次回のブログで紹介いたします。
後記
ついつい、熱く説明してしまい長くなってしまいました!
次回、いよいよ 白川軍八郎 です!!!
拝読していただきまして、ありがとうございます。
次回もどうぞ宜しくお願いいたします。