津軽三味線の意外な歴史について、まとめ。
こんにちは、かんちゃんです。
今回は津軽三味線の意外な歴史についてのまとめです。
まず今まで記事に書いてきた内容(白川軍八郎を除く)はほとんどが音源が残っていなく、資料としても一切残ってない状態ですのでこのまま時代が進んでいくといずれ忘れ去られる歴史だと思います。
津軽三味線に長年携わってる私としてはとても寂しい事で、どうにか後世に伝えていきたいと思いブログの記事にさせていただきました。
そして最後の記事の白川軍八郎以降は皆さん名前は聞いたことが少しくらいある方が津軽三味線の歴史を作っていくのです。
白川軍八郎は己の演奏技術を磨くことに人生をかけていたので弟子はほとんどとらなかったみたいです。
それでも何人かは居たそうです、中でも有名なのは「三橋美智也」が筆頭ではないでしょうか。
三橋美智也の唄は物凄く有名ですが実は津軽三味線もかなり凄いです!
音源は少し残ってます。
特に三の糸の音澄みは軍八郎の音澄みとそっくりな音を出します。
あと、ツボ使いも軍八郎のツボ使いとそっくりですよね。
このツボ使いっていうのは個人個人で癖があり良く聞くとわかるんですよね。
この他、木田林松栄・高橋竹山・福士正勝と巡業一座の黄金時代を作ってきた津軽三味線奏者に歴史は続きます。
次の時代は小山貢・佐々木孝・藤田淳一と続いていきます。
この時代の津軽三味線奏者はインターネットで調べると簡単に出てきます。
出てくるということは、ちゃんと後世に残ってくと言う事で安心するとともにこのブログでは割合させていただきます。
そして仁太坊の時代の情報、それは坊様の時代ですよね。
この時代の情報は二人の方がとても苦労して調べていました!
苦労した理由は資料が全く残ってないということです。。
私はその一人の松木宏泰さんに直接聞いた話しと、二人が著作した本を良く読みました。
その他、当時巡業一座に若いながらも参加していた方に直接話しを伺いました。
とても貴重な話しです。
この方はまだご健在なのでまだまだ話しを聞いていきたいと思っています。
まとめ
津軽三味線というのは、幕末時代に江戸幕府の条例が解けて誰もが三味線や尺八や箏楽ができるようになり。
主に目が不自由な方々の生活の糧に演奏され始めたのが始まりといわれてます。
この様な方々を総じて「坊様」と言われ「坊様」が演奏する三味線を「坊様三味線」と言われてました。
※「坊様」とは「ぼうさま」ではなく「ぼさま」と呼びます。
当時は新潟県の方から瞽女さんが青森県の方に来ていて多くの「坊様」が瞽女さんから三味線や唄や笛を習っていたそうです。
その中から津軽三味線の始祖「仁太坊」が誕生したのです。
そして仁太坊は門付けをやめ、弟子に芸を教えながらお祭りや川倉地蔵尊で己の芸を磨いていたそうです。
その教えは。
「人真似だばサルでもできる、なの三味線ふげ」
という名言を残してます。
なんと現在までこの名言は守られてきている津軽三味線の伝統なのです。
その後も長作坊という弾き三味線「長泥手」の名手を生み。
長作坊 → 梅田豊月 → 木田林松栄
喜之坊
出崎坊
嘉瀬の桃
茂助坊
戸田坊 → 高橋竹山
白川軍八郎 → 三橋美智也
と筆頭の弟子を上げましたが、このほかにも何百人という弟子を派出したという話です。
そしてこの弟子たちも弟子を教えているのですが全て仁太坊の教えだけは守り続けてきたんですよね。
それだけ仁太坊の影響力は当時も物凄かったのでしょうね!!!
そして仁太坊最後の愛弟子「白川軍八郎」が出てきます。
仁太坊が津軽三味線の始祖で、津軽三味線の基礎と精神を確立してきたのに対して。
愛弟子の軍八郎は津軽三味線の技術を一気に開花させ「曲弾き」というジャンルを確立させました。
そしてこの後の奏者は仁太坊の精神と軍八郎の技術と仁太坊の教え「人真似だばサルでもできる、なの三味線ふげ」を基礎に津軽三味線を発展させてきました。
ある意味、津軽三味線はアメリカのジャズと似ているかもしれません。
ジャズは楽曲が決まっていて、その楽曲に合わせて演奏しながらも各パートはソロ演奏部分がありそこのソロ演奏部分は各プレーヤーが自由にアレンジしたグルーブを刻みます。
そうでない楽曲もありますが、そんな部分が津軽三味線と似てるなと私は思います。
後記
今の若い世代の津軽三味線奏者も色々な考えの元、津軽三味線を発展させています!!!
古典が大好きで古典をとことん追求していくタイプ。
新しい演奏スタイルや演奏グルーブを好んで追求していくタイプ。
新しいスタイルも好きだが古典も大切としていくタイプ。
今現在も進化し続ける津軽三味線が私は大好きです(^^)
拝読していただきまして、ありがとうございます。
次回もどうぞ宜しくお願いいたします。